明治日本をつくった北浜 (2014/9/16OPEN 2007/12/12仮OPEN)

司馬遼太郎が「明治という国家」というように
明治維新は新たな国づくりに匹敵する偉大な事業であった。

維新にあたり大改革を迫られた2つの原動力――即ち、「学術」と「政治」が
2つとも自由で開明的な大阪の中心・北浜で激しく進展したことは
日本にとって幸運であった。
 

<学術――明治日本の西洋技術・法制度導入を可能にした適塾人脈>

薩長政治による明治国家の理想を現実化したのは、ことごとく北浜・適塾人脈だった。

福沢諭吉:(大阪出身。大阪弁のため中津藩(大分)ではうまくなじめなかった。来阪後2年で塾長に。)
      脱亜入歐、複式簿記、保険制度、慶應義塾
大鳥圭介:坪井塾頭、蝦夷共和国
       工部大学校長・官営工場総括、
       セメント、ガラス、造船、紡績、石油開発
       3代目学習院長
橋本左内:藩医、開国思想、安政の大獄(26歳)
大村益次郎:医師・西洋学者・「その才知、鬼の如し」(青木周弼)
        兵学者(事実上の陸軍の創始者 )
        適塾頭→長州村医→宇和島藩上士格
        →長州藩上士・幕府撃退→京にて朝臣・
        戊辰戦争勝利→木戸孝允(桂小五郎)、
        大久保利通と並び新政府の幹部となる。
        司馬遼太郎「花神」の主人公。京で刺客に
        遭い大阪の病院で没す。
 長与専斎、佐野常民、高松凌雲 ・・・
 

塾ではたいがいやんちゃなことをしていたらしい。(福翁自伝による)「夏はふんどしもせず素っ裸。
物干し台で酒が飲みたくそこにいた下女達を塾友が裸体を見せて追っ払う。
別の時、下女が呼んだと思って裸で出たら緒方洪庵先生の奥さんだった。」
「牛鍋屋に豚の解体を依頼され、土佐堀川に沈めて窒息死させ皆で解体。お礼に頭を頂き眼球など解剖実験材料に。」
「喧嘩の真似をして騒ぎ、気弱な店を閉めさせる」・・・梁山泊というか、トキワ荘というか。
全国から秀英が集い、互いに刺激しながら苦学し、また楽しんだ様子がうかがえる。
 
 

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<政治――三権分立と漸次立憲を決定づけた「大阪会議」>

西郷ら維新の立役者の一斉下野、廃藩置県で新政府が急激に求心力を失いピンチとなったなか、
孤立し新政府を一人で切り盛りする大久保利通と、西郷に匹敵しうる唯一の存在木戸孝允(桂小五郎)
が新首都・東京と薩長の真ん中大阪に集って、1ケ月弱の個別議論(※)の上、
三権分立、立憲君主政治の早期実行の約束と引き換えに木戸と板垣退助の
参議復帰、求心力回復を実現したのが「大阪会議」である。

※大久保と木戸・板垣とは直接会わず、伊藤博文や井上薫が走って間を取り持った。

明治8年2月11日、料理旅館・加賀伊(会議成功を祝して「花外楼」となる)にて合意に至り
同年4月に三権分立はスピード実現される。
 

 大阪証券取引所が有る西日本の株の中枢・北浜。
 ここは、「民主国家・日本」を方向付けた歴史的に重要な「大阪会議」がまとまった地(MAP)でもあります。
 
左図の説明:

(左):時の権力者・大久保利通(薩摩出身)。このとき相棒西郷隆盛は征韓論について意見が分かれ明治6年の政変で下野。

(上):大久保と共に版籍奉還を断行したのちが、明治6年の政変で下野ののち裁判所設置を条件に政権復帰することになる木戸孝允(元長州の桂小五郎)

(右):明治6年政変で下野ののち、議会設置を条件に政権復帰することになる板垣退助(土佐出身)

(右下)井上馨(長州)と
(左下)伊藤博文(長州)が彼らを結びつけた。

集まったのは時の権力者・大久保利通、裁判所設置を条件に政権復帰することになった木戸孝允(元長州の桂小五郎)、
議会設置を条件に政権復帰することになった板垣退助、彼らを結びつけた井上馨と伊藤博文ら・・・。
この成果を受けて議会制民主主義を目指す「立憲政体の詔書」が明治天皇から発布されます。
 現在も残る川面を臨む料亭「花外楼(かがいろう)」こそ、、明治8年1月〜2月にかけて行われたその大阪会議がまとまった店であります。

江戸時代から明けて僅かの1870年代、世界でも最先端の三権分立・立憲政体を目指したことは、私たちが誇りとすべき先人のスピリッツであります。
この北船場や中之島の界隈には、明治期から大正、昭和戦前に建築されたレトロモダンな「近代建築」が散見されますが、
近代建築に限らず、近代の高いスピリッツを育んだ環境が、ここ北浜には残っています。(参照画像)「大阪会議」大百科事典(昭和7年平凡社)
 

明治日本をつくった北浜(PowerPoint)